千暇日記(ちか)

唯の暇な人

言葉の持ち主

今日も忘れず、ここに来た。

来てみたはいいものの、何を書くかは未だ決まっていない。

何か書いているうちに、きっと見つかるだろう。

 

今ふと、句点について気になった。

何気なく使っている句点。

しかし、句点を置くタイミングというのは、文を書く上で非常に重要なポイントだ。

調べたところによると、句点を置く位置にはある程度のルールがあるようだ。

私は自分なりではあるが、句点を置くタイミングというのを、文を書く上で大切にしている。

句点を置くタイミングによって、文や物語の持つ意味や色、味なんかに影響するからだ。

それと、テンポ。

いかにリズムのよい文字の並びにするか。

いかに、流れるように滑らかに読むことができるか。

そんなことを気にかけていたりする。

活字を読むのが好きではない私にとって、読んでいて楽しいと思えるような言葉選びであったり、漢字の変換であったり、文字の並びであったり、それこそ句点の位置であったり。

そういうのは、とても大切なのである。

 

私は "言葉" というものを、大切にしている。

言霊という言葉があるように、言葉には魂が宿る。

それは決して霊魂だとかそういうことではなく、言葉には人間の思いないし想いが、含まれているということだ。

口にするにせよ文字にするにせよ、意図せずとも、そういった魂が言葉には宿る。

だから言葉というものには、力がある。

言葉はありとあらゆるものに姿形を変えながら、存在する。

まるで呪いのようなものだ。

"呪い"

これが "のろい" とも "まじない" とも読めるように、言葉は毒にも薬にもなりうる。

それは "愛" もまた、同じだ。

時に人を強くし、時に人を弱くする。

世界には、そんな二面性が表裏一体となり、互いに交わりながら、ひとつのものとして存在するものが数多くある。

確かにそれは矛盾だが、その矛盾こそが存在を確立させているように思う。

私はそれに、好奇心と同時に恐怖心を抱く。

ところで、好奇心と恐怖心といえば、この日記を好奇心だけが先走って後先考えずに書き始め、今になってオチがないことに気がつき、私はとてつもなく恐怖している。

こういったオチのない話は、完成されないまま完成となったもので溢れかえっている私の中には沢山あるわけで、続けようと思えばいくらだって続けることができるし、繋げようと思えばどこにでも繋がる。

しかしオチ、つまり終わりはないので、それが延々とループすることになる。

そうして困るのが、気がついたら時だけが過ぎて、結果として何の答えも出なかった、という終わりを迎えてしまうことだ。

哲学的に語るのは果てしなく好きだが、それを誰かと共に行うとなると、相手にも自分にも時間という制限がかかってくる。

そうすると、時間を気にしたり情緒を気にしたり、思う存分語るなんてことはできず、途中で切り上げることになれば、不完全燃焼になる。

そんな中途半端で終わるくらいならば、はじめからやらなければいいというのが巡って、私は誰かと語らうなんてことは避けるし、仮にそうなったとしても、ある程度話して、

「まぁ、宇宙って怖いよね」

なんてことに紐付けて、終わらせようとそそくさと締めくくる。

そしてこういうのは、あくまで個人の意見であるから良いわけで、それを他人や社会に反映させようとか理解してもらおうとか、同意や賛成なんかを得ようとして主張すると、争いや傷が生まれる。

だから私はこういう話は、独り言ととして呟く程度に留めておくようにしている。

これは独り言だから、聞くも聞かないも、見るも見ないも、選択する自由はあなたにあって、感想や見解などもぜひご自由に残して下さって構わないけれど、争うつもりは無いですから、貶そうとか言い負かそうだとか、そういうものは一切受け付けていません。また、ご自分の思想を開示したいのであれば、ここでは求めていませんので、ご自分の媒体を通して発信してください。

というような持ち用でなければ、社会やネットでは生きていけないだろうと思うし。

世界には沢山の人間がいて、そのひとりひとりに考えや意見がある。

だからどんな風に解釈されるかは、結局は受けとり手次第だ。

しかし、常識を持った配慮は、発信・発言する側の当然のマナーであるし、気にかけなければいけない。

それをした上で発信・発言をし、仮にそれに対して何かしらの攻撃的な誹謗中傷なんかを受けた時には、それは数多くある意見のうちのひとつで、その人個人の意見で、世界には沢山の人がいるのだからそういう意見もあるだろう、受け入れずに受け止めれば良い。

投げかける側も受けとる側も、そういった心構えを持って行う。

それがリテラシーという名で求められる、いわゆる自己責任なのだと思う。

 

言葉の責任。

言葉に人格はない。

人格があるのは、言葉を持ち、言葉を使う私たちである。

だから言葉の責任をとるのは、私たちなのだ。

言葉は発した瞬間に、自分から離れていくように感じるものだ。

しかし、どれだけ言葉が自分から離れていこうとも、それは感覚であって、決して自分から離れてはいない。

どんな言葉であっても、自分がその言葉を発したのであれば、その言葉の持ち主は永遠に自分なのである。

 

 

さぁ、タイトルをつけて今日はここで終わりにしようか。

それじゃあ、また明日。