そうだ、そうだった。
15歳のとき、あれは平日の昼下がりの閑静な住宅街。
薄く白がかった冬の空を見て、私は独りを選んだんだ。
田舎の駅前の午前零時前の男女の攻防を見ながら迎えを待つ。
大人になれば、一人にならない方法なんていくつもある。
誰かと出会うのにも、誰かと関係を築くのにも、あまり時間はかからない。
だけど私は知っている。
二人でも三人でも四人でも何人でいても、孤独は埋まらない。
どれだけその瞬間が幸せでも、どれだけその瞬間が美しくても、独りであることは変わらない。
自分を知った気になった誰かは、きっと私の孤独を知らない。
ずっとずっと付き纏う、空っぽな独りぼっち。
ひとりは楽だ。
時間もお金も労力も感情も、全部自分の自由に使うことができる。
何かや誰かに振り回されることもない。
けれど社会で生きていくには、特に範囲の狭い社会で生きていくには少し窮屈だ。
人間は社会的動物であるし、何かを主張するにも数は多い方がいい。
これは誰かの意見でもあるし社会の意見でもあるし、私自身の意見でもある。
ひとり、一人、独り…
一人になることは選べなくとも、独りでいることは選べる。
だから私は独りを選んだし、孤独であることを辞めたりはしない。
それが私で、だから私。
そういえば、あれはまだ3歳くらいだった頃、プレ保育園に通っていた私は先生から
「この子はきっとずっと満足をしない子でしょう」
と言われたことがあると母から聞いたことがある。
なんでそんなことを言うのだとか、そんなことに囚われる必要はないだとか、なんだとか、そもそもそれがどういう意味合いを持っているのか分からなかったり……
けれど私はこの言葉を案外気に入っていたりする。
だから擁護とか慰めとか触れないようにとかそういうのじゃなくて、「確かにそうだね」って一言、まるで私を私の全てを理解しているように言って欲しかった。
私がこの話をあちらこちらで度々するのは、きっと「確かにそうだね」と言ってくれる誰かを待っているから。
でもやーめた。
私に全てを理解できないように、誰かが私の全てを理解できるなんて、期待することに意味すらないように。
世界には普遍的なものが幾つもある。
時間、命、きっと孤独も。
ところで、「みたされる」というのを表すとき、
「満たされる」と「充たされる」がある。
「満たされる」は、物理的にいっぱいにすることで、物事の上限値まで達されるときに使われる。
「充たされる」は、内容的にいっぱいにすることで、欠けている分がいっぱいといえる状態になったときに使われる。
「満足」という言葉は、そのどちらもの「みたされる」という意味を持つが、きっと私が「満足」できないのは、先生に言われた「満足」っていうのは、「満たされる」じゃなくて「充たされる」を知ることがないってことなんじゃないかと思う。
そういえば、「じゅうぶん」っていうのを表すのにも2つあった。
「十分」と「充分」
これも「満たされる」と「充たされる」と同じで、「十分」は「満たされる」の意味合いにあたるし、「充分」は漢字の通り「充たされる」の意味合いにあたるだろう。
あぁあと、「ひとつ」 「一つ」「1つ」なんていうのにも私は拘っていたな。
文章を縦に書くのか横に書くのかというのは抜きにして、どれも単や個を表すものだけれど、「ひとつ」はふわっと全体的に包み込むような感じがするし、「一つ」ははっきりと単や個を主張しているような感じがするし、「1つ」はそれよりもより確固たる明確な単や個って感じがする。
やっぱりこんなことを普段考えて、そんなことで頭がいっぱいだから、余計に中々分かっては貰えないのだろうけど。
いつかのどこかの文豪風に言うのなら、
世界にはたくさんの人がいてその世界の中のそれぞれにそれぞれの世界がまたあって、世界にはたくさんのことがあって、どれを選びどれを選ばないかの自由があって、それを選んでいって創られたのがそれぞれの世界であって、それぞれの世界というのは自分自身という人間であって、あなたが意見するもしないにも自由があるように、中々理解し難いと思うだろうけれど、私の世界にはそういった概念があって、私自身はそういう人間であって、私はあなたの世界やあなた自身という人間を否定することはしないから、世界に自分のような人が存在するようにあぁいうような人も存在しているんだろうななんて程度に、あなたもどうか私の世界や私という人間を否定しないでくれたら嬉しいのです。
…といった具合だろうか。
まぁ、突然この話をしたのには訳がある。
以前『言葉の持ち主』というタイトルをつけた文章を書いたことがある。あれももう2年と数ヶ月も前のことだ。
その中で「呪い」は「のろい」とも「まじない」とも呼べるという話を書いた。
そこでも述べたように、私は言葉を大切にしていて、そういった似て非なる言葉を見つけてはそれに自分の解釈を見出すのが好きだ。
さっきも言っていたように、私のこういった部分を分かって貰うことは難しいし、全く同じような解釈を持つ人もそうそういないし、そもそもそういうことを考えている人にもあまり出会わない。
だから、この広い世界の中でこのたくさんの人の中で、そういうのをそういう私を大事にしてくれる誰かと巡り会うのは、奇跡なんだと思う。
この地球でこの世界ができて人間という生物が存在しているのも、ほんの偶然の連続にしかすぎないんだと教えてくれた君は、「呪い」を「のろい」なのか「まじない」なのかと言った君は、きっと運命なんだと思う。
そう感じたんだ。
偶然の連続は奇跡も運命も生んでいく。
きっと駅前の彼らだって。
一人ぼっちじゃなくなることで独りぼっちは埋まらないし、私の孤独は無くならない。
けれどもし、また偶然が重なって奇跡を生んだら、この運命も少しは変えていけるのかもしれない。
私が選んだ "それ" は、そういう偶然で奇跡で運命だった。
さて、タイトルを決めよう。
今日はここでおしまい。