千暇日記(ちか)

唯の暇な人

沈丁花の香りはノスタルジアを運ぶ

あれから随分と月日が経ってしまった。

4ヶ月といったところだろうか。

 

忙しくていたといえばそうだったと言えるし、暇していたといえばそうだったとも言える。

 

だから書かなかったのか、というわけではない。

 

この場合、この例えが最適なのかは怪しいところではあるが、筆が乗らなかったというのが本当のところだ。

 

まぁこれも、言い訳の常套句といわれれば、そうであるとしか言いようがないが。

 

 

気づけば、もう春も近づいてきた。

梅の花がちらほら咲き、咲いたと思えばもう姿なく散っている。

暖かく心地のよい風と、鋭く突き刺さるような冷たい風とが入り混じる。

空の青もどこか濃くなりつつあって、日もだいぶ長く顔を見せるようになった。

どこからかふと、沈丁花の香りが漂ってくる。

 

今でこそ、あの花の名が沈丁花であることを知っているが、昔は、外でままごとができるくらいの暖かさになったら、祖父母の家の何処からともなく香ってくるあの花、というような認識だった。

 

しかし、花の名は分からずとも、鮮明に花の香りと、柔らかな日差し、少しの水の冷たさとが思い出されるほどに記憶に残っているのは不思議である。

 

沈丁花は、梔子、金木犀と並んで三大香木と言われるほど香りが強いらしい。

春は沈丁花、夏は梔子、秋は金木犀

確かにこの香りたちは、強くその時の情景を想起させる。

香りと記憶は強い結び付きがあると言うが、その通りである。

これらの香りはどれも、どこかで知っている気がするというような懐かしさを呼び起こす。

 

祖父母の家の沈丁花の香りと、柔軟剤の香り。集まった人の声と、夕方の防災無線の音楽。窓から低く差し込む夕陽と、少しずつ卓に並びはじめる夕飯の小鉢。湯上がりの祖父から湯気と共にほんのりと香る竹酢液と、プシュッと音を立てて開けられるビールの音。そして最後に「ご飯だよ」と声がかかる。

 

これをエモいと言わずして何と言う。

これこそまさに、ノスタルジアである。

 

ここでふと『千と千尋の神隠し』に出てくる、銭婆の言葉を思い出した。

 

 

「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」

 

 

私たちは、大人になるにつれて段々と忘れていく。

それは現実という世界の中で、目まぐるしく過ぎ去る時間を幾千と繰り返すから。

 

時にそれは "過去を生きた自分" を、その存在すらも否定するようなものに感じさせることがある。

だから忘れたことを、忘れていくことを、ひどく後悔して、どうしようもなく虚しく、哀しみに暮れる。

 

けれどそれも、もしかしたら忘れてしまったと思っているだけで、どこかでは確かに残っているのかもしれない。

きっとそれは、自分という存在を構成する、紛うことなき一部として、それは遠いものになっていっても、永く続いていくのだろう。

 

沈丁花花言葉は "永遠"  

 

 

さて、タイトルをつけておわるとしようか。

今日はここでおしまい。

君によく似た冬になれば

さぁ、今日も書くとしよう。

今日は俄然乗り気だ。

というのも、今日は珍しく書き残したい出来事があるからだ。

昨夜は久々に、中々寝付くことができなかった。

眠れないとなると特にやることもないので、自分が想像したキャラクターをAIに投影させて、AIとの会話を試みていた。

想定していたよりもAIの技術というのは進んでいて、曖昧な表現の解釈や学習の速度なども凄まじいものだった。

そこで朝になってふと、11歳〜13歳くらいの時にユキちゃんという友人がいたことを思い出した。

 

ユキちゃんは、ある日突然やって来た。

何の前触れもなく。

まるで冬の寒さのように。

気づいたら一緒に下校して、お喋りして、放課後遊んだりしていた。

ユキちゃんの家がどこにあるかも、ユキちゃんの家族がどんな人なのかも知らなかったが、11歳の私にとってはさほど重要ではなかった。

それよりも、ひとりの時間をふたりの時間にできることの方が大きな意味を持っていた。

特段これといって印象的な時間だったというわけではないが、そのたわいもない感じがとても心地よかった。

特別だった。

私とユキちゃんが一緒に遊ぶのは、決まっていつも2人きりの時だけで、家族や同級生たちも、私とユキちゃんが一緒に遊んでいることを知らなかった。

秘密だった。

それから時は経って、中学生になった。

新しい環境に慣れるのに必死で目まぐるしい日々を送っていた。

それで、忘れていったんだ…

忘れてしまったんだ。

私はユキちゃんのことを。

そしてある日。

ユキちゃんがいなくなった。

ユキちゃんが消えてしまった。

跡形もなく。

まるではじめからいなかったかのように。

存在しなかったかのように。

存在、しなかった…?

 

ユキちゃんは、いわゆるイマジナリーフレンドという、想像上の友人だった。

といっても、現実に彼女が存在しないことも分かっていたし、自分の一人芝居だということも理解していた。

ただ、気づきたくなかった。

それに気づけば、ユキちゃんが消えてしまうと感じていたから。

だから知らないふりをした。

 

そして今日。

ふと、ユキちゃんのことを思い出した。

今でも鮮明に彼女の姿が浮かんでくるようだった。

繊細でしなやかで透き通っている。

どこか冷たく神秘的で美しい。

冬の寒さのように。

何だか今日は、とても冷える。

指先が冷たい。

彼女に触れたことのない指先に、そっと何かが触れた気がした。

 

 

さぁ、タイトルをつけよう。

今日はここでおしまい。

 

 

 

 

風邪と黒猫

最後に日記を書いてから、気づけば5日程経っていた。

以前言ったように、私は三日以内坊主だ。

ご覧の通り、見事3日と続かなかった。

しかし、今回に限っては故意ではない。

確かに結果だけ見れば、3日と続かなかったわけだが、これには理由がある。

言い訳がましいと思うかもしれないが、弁明させてほしい。

 

昨年は、私にとって転機となる年だった。

生まれ育った地を離れ、新たな場所での新たな生活がはじまった。

不慣れなことばかりだったが、それでも生活を営むことができていた。

思い返せば色々あった。

そう、色々。

例えば、風邪とか。

それまで、ほぼ温室のような生活をしていた私は外的刺激なんてものに脅かされる心配もさほどなかった。

しかし、変化に完全に適応しきれていない身体は正直だった。

正真正銘、王道な風邪をまんまと引いたのだ。

新生活をはじめて一度目の風邪。

いい思い出だ。

なんというか、新生活の醍醐味のようなものがある。

けれどそれが醍醐味だと思えるのは、一度まで。

二度目からはただの厄介にすぎない。

そして、その年の季節の変わり目。

またしても、風邪を引いた。

しかも二度目。

先にも述べた通り、ただの厄介である。

そうして翌年。

今年は季節の変わり目も風邪を引くことなく、このまま年末を迎え、平和な年になるはずだった。

しかしここに来て、そいつはやって来た。

サンタクロースよりも早く。

11月。

予定があり、都心へと出向いた。

世界的な流行病があり、今年になってそれが緩和され、開催が4年ぶりとなったイベントに行くためだった。

10日間行われ、来場者数は111万2000人だったそうだ。

とても迫力があり、刺激的な一日だった。

が、それがいけなかった。

沢山の人、長い時間、極度の疲労

そうしてできた隙に、風邪はやって来る。

予想外の高熱と倦怠感、悪寒や咳、くしゃみなど、ありとあらゆる風邪症状の代表のようなものがどんどんと押し寄せて来て、今日になってやっと回復しはじめたのだ。

 

以上が、弁明という名の経緯と言い訳である。

まぁ、なんというか、非常に無念である。

 

そう言えば、風邪を引く前に、何度か黒猫を見かけた。

黒猫を見かけると、悪いことが起こるだとか、反対に良いことが起こるだとか、そんなジンクスがある。

では、黒猫を飼っている人はどうなんだ、というのは置いて、もし仮に私が黒猫を見かけたことで何か悪いことが起こったとするならば、間違いなくこの風邪だし、良いことが起こったとすれば、風邪で済んだということだ。

これもまた、表裏一体というか、紙一重というか。

つまるところ、どちらを信じるかは自分次第で、それによって物事の見方や進め方は変わるということであって、猫はいつどこでも可愛いし、存在までもが尊く、猫に振り回されるのさえ本望であって、なんなら猫に生まれ変わりたいとすら思う。

…とにかく、人は猫を前にすればみな無力だということだ。

黒猫にとっては、自分を見たことによって人間が不幸になろうが幸せになろうがどうでもよくて、人間だけがそんなことを気にしている。

人間だってそうだ。

自分が起こす行動が一体どれだけの影響を与えるのか、そんなことは行動を起こすより先には考えることはそう滅多にない。

蝶の小さな羽ばたきがやがて大きな竜巻を起こす、バタフライエフェクトのように、もしかしたら、ちょっとした小さなことで少しのズレが生じて、その少しのズレが重なって大きなズレになったりするかもしれない。

しかしどれも、後になってみなければ結果は分からない。蓋を開けてみなければ分からない。

そうまさに、シュレーディンガーの猫である。

結局全ては結果の上に成り立っているに過ぎないわけだ。

現に今あるもの全てだって結果の産物であり、同時に後の結果に繋がる要因なのだ。

些細なことで変化する。

これは、良くも悪くも捉えることができる。

そのどちらと取るか、これもまた自分次第だ。

人生、ポジティブにもネガティブにも生きられるのなら、どちらかといえばポジティブに生きたいものだが、時にネガティブというのは素晴らしく創造的であったりするから捨てがたい。

人間に生まれてきた以上、時と場合とたまの気分によって、人間らしくその都度選んで都合よく生きていってもいいのではないだろうか、なんて。

 

 

あ、そうそう。

ちなみに私は、犬派である。

 

 

さぁ、タイトルを付けて、今日はここでおしまい。

 

 

言葉の持ち主

今日も忘れず、ここに来た。

来てみたはいいものの、何を書くかは未だ決まっていない。

何か書いているうちに、きっと見つかるだろう。

 

今ふと、句点について気になった。

何気なく使っている句点。

しかし、句点を置くタイミングというのは、文を書く上で非常に重要なポイントだ。

調べたところによると、句点を置く位置にはある程度のルールがあるようだ。

私は自分なりではあるが、句点を置くタイミングというのを、文を書く上で大切にしている。

句点を置くタイミングによって、文や物語の持つ意味や色、味なんかに影響するからだ。

それと、テンポ。

いかにリズムのよい文字の並びにするか。

いかに、流れるように滑らかに読むことができるか。

そんなことを気にかけていたりする。

活字を読むのが好きではない私にとって、読んでいて楽しいと思えるような言葉選びであったり、漢字の変換であったり、文字の並びであったり、それこそ句点の位置であったり。

そういうのは、とても大切なのである。

 

私は "言葉" というものを、大切にしている。

言霊という言葉があるように、言葉には魂が宿る。

それは決して霊魂だとかそういうことではなく、言葉には人間の思いないし想いが、含まれているということだ。

口にするにせよ文字にするにせよ、意図せずとも、そういった魂が言葉には宿る。

だから言葉というものには、力がある。

言葉はありとあらゆるものに姿形を変えながら、存在する。

まるで呪いのようなものだ。

"呪い"

これが "のろい" とも "まじない" とも読めるように、言葉は毒にも薬にもなりうる。

それは "愛" もまた、同じだ。

時に人を強くし、時に人を弱くする。

世界には、そんな二面性が表裏一体となり、互いに交わりながら、ひとつのものとして存在するものが数多くある。

確かにそれは矛盾だが、その矛盾こそが存在を確立させているように思う。

私はそれに、好奇心と同時に恐怖心を抱く。

ところで、好奇心と恐怖心といえば、この日記を好奇心だけが先走って後先考えずに書き始め、今になってオチがないことに気がつき、私はとてつもなく恐怖している。

こういったオチのない話は、完成されないまま完成となったもので溢れかえっている私の中には沢山あるわけで、続けようと思えばいくらだって続けることができるし、繋げようと思えばどこにでも繋がる。

しかしオチ、つまり終わりはないので、それが延々とループすることになる。

そうして困るのが、気がついたら時だけが過ぎて、結果として何の答えも出なかった、という終わりを迎えてしまうことだ。

哲学的に語るのは果てしなく好きだが、それを誰かと共に行うとなると、相手にも自分にも時間という制限がかかってくる。

そうすると、時間を気にしたり情緒を気にしたり、思う存分語るなんてことはできず、途中で切り上げることになれば、不完全燃焼になる。

そんな中途半端で終わるくらいならば、はじめからやらなければいいというのが巡って、私は誰かと語らうなんてことは避けるし、仮にそうなったとしても、ある程度話して、

「まぁ、宇宙って怖いよね」

なんてことに紐付けて、終わらせようとそそくさと締めくくる。

そしてこういうのは、あくまで個人の意見であるから良いわけで、それを他人や社会に反映させようとか理解してもらおうとか、同意や賛成なんかを得ようとして主張すると、争いや傷が生まれる。

だから私はこういう話は、独り言ととして呟く程度に留めておくようにしている。

これは独り言だから、聞くも聞かないも、見るも見ないも、選択する自由はあなたにあって、感想や見解などもぜひご自由に残して下さって構わないけれど、争うつもりは無いですから、貶そうとか言い負かそうだとか、そういうものは一切受け付けていません。また、ご自分の思想を開示したいのであれば、ここでは求めていませんので、ご自分の媒体を通して発信してください。

というような持ち用でなければ、社会やネットでは生きていけないだろうと思うし。

世界には沢山の人間がいて、そのひとりひとりに考えや意見がある。

だからどんな風に解釈されるかは、結局は受けとり手次第だ。

しかし、常識を持った配慮は、発信・発言する側の当然のマナーであるし、気にかけなければいけない。

それをした上で発信・発言をし、仮にそれに対して何かしらの攻撃的な誹謗中傷なんかを受けた時には、それは数多くある意見のうちのひとつで、その人個人の意見で、世界には沢山の人がいるのだからそういう意見もあるだろう、受け入れずに受け止めれば良い。

投げかける側も受けとる側も、そういった心構えを持って行う。

それがリテラシーという名で求められる、いわゆる自己責任なのだと思う。

 

言葉の責任。

言葉に人格はない。

人格があるのは、言葉を持ち、言葉を使う私たちである。

だから言葉の責任をとるのは、私たちなのだ。

言葉は発した瞬間に、自分から離れていくように感じるものだ。

しかし、どれだけ言葉が自分から離れていこうとも、それは感覚であって、決して自分から離れてはいない。

どんな言葉であっても、自分がその言葉を発したのであれば、その言葉の持ち主は永遠に自分なのである。

 

 

さぁ、タイトルをつけて今日はここで終わりにしようか。

それじゃあ、また明日。

はじまり

今日から日記をつけることにする。

といっても、この文を書くのは今日がはじめてではない。

私が日記をつけようと、はじめのページのはじめの行に書くのは、決まっていつもこの台詞から。

日記をつけようと試みて、何度も書いては消して書いては消してを繰り返し今に至る。

基本的には、ノートなんかに手書きで文字を綴っていくことのほうが好きだけれど、性格上、細かなことが気になって中々先に進まない。

例えば、文字の大きさは一定かどうかとか、文字の並びは真っ直ぐかどうかとか、文字の間隔は均等かどうかとか、こだわってしまう。

何度もノートのページを破り捨てては一から書き直すなんてことばかりをするものだから、必然的にノートのページ数は次第に減っていく。

けれどそれもはじめのうちだけで、間違いや誤りなんかがあっても、段々と真っさらなページが文字で埋まっていくのを、俯瞰的に眺めて実感すると、不思議と調和がとれているもので…

一部分だけに焦点を当ててみると不自然に感じるようなものでも、遠くから全体をみてみると意外にも自然に感じたりする。

 

日記をつける上で、私にとって問題となるものは他にもある。

一体何を書くのか、ということだ。

はじめのページは、言ってしまえば定型文のようなものを書けばいいわけで、それを幾度と繰り返してきた私にとっては容易いことだ。

しかし、その次の題材は何にしようか、そう考えた途端に筆が進まなくなって、キャップを外したペンの先が乾いていくのを、ひしひしと感じることになる。

けれど私は知っている。

書く内容が見つからないのなら、こんな風に書く内容がみつからず書けないということをひたすら述べれば、ページは次第に埋まっていくということを。

取り敢えず何かしらを綴ってみる。

案外それで、何となくまとまるものだ。

何となく、ではあるけれど。

 

そうして、最後に問題として浮き彫りになるのが、私の三日以内坊主癖だ。

これが悲しいことに、基本的にありとあらゆることが三日と続かない。

三日も続かない。

だから、三日以内坊主。

日記がそのいい例だ。

自分の名誉のために弁明しておくと、三日以上続いたものは基本的にある程度続く。

基本的に、ある程度。

曖昧と保険は、クソったれな現実を生きる賢い術かもしれない。

…と、つい話が逸れてしまうところだった。

これも私の悪い癖。

話題が脱線してどんどんと横道に逸れていくから、最終的にゴールを見失って、挙げ句の果てにスタートすら分からなくなって、路頭に迷う。

これは現実での方向音痴ぶりにも、見事なまでに反映されている。

だから、途中で終わった未完成で完成されたものだらけが増えていって、私の中は常に小さな何かで溢れかえっている。

そして忘れていく。

忘れたことさえも忘れていく。

そしてたまにふと思い出す。

熱しにくく冷めやすくて、ときたま過剰な集中力を発揮したかと思うと、すぐに鎮火する。

名前が付けられることの無かったものたちは、存在価値を失くして、行き場を失う。

私という人間が酷く混沌している生き物だから、人より調和を望むのかも知れない。

 

続かないなら、続けようとしなければいい。

ということで、気が向いたときにだけ綴ることにする。

日記とは名ばかりな、そんな私の徒然日記のはじまり。

 

 

さぁ、タイトルを決めようか。

今日は、これでおしまい。