千暇日記(ちか)

唯の暇な人

Song of Sparkle

久しく更新していなかったブログを更新する。

感情を思考を通さずに言葉にするというのは、中々に難しいことだ。

けれどこの想いを、残しておかなければいけないような気がして。

何も纏まらないまま綴ってみることにする。

 

 

 

透き通った綺麗な音楽が流れ込む。

それは水のようでもあるし、星のようでもあって。

掴めないし届かない。

もう二度と手に入れることのできないものはあまりにも美しくて。

美しいまま時が止まって、その美しさは永遠になった。

もし来世があったなら、なんて他愛もない話がある。

私には来世なんて要らないし、そんなものが無くてもいいようにこの人生を生きたい。

けれどもし、またこの美しい煌めきと巡り合うことができるのなら、きっと私は来世を強く願うのだろう。

次は離さなくていいように、失わなくていいように。

記憶の中だけにじゃなく、閉じ込めておけるように。

 

 

どんなものにも終わりはあるものだ。

命にせよ人生にせよ、関係にせよ物語にせよ。

終わりとは寂しいものだ。

でも一番悲しいのは、終わりを迎える時よりも、終わりがあると気づいてしまった時。その終わりが見えてしまった時。

もちろん、どんなものにも終わりはあるものだ。

けれどどこか、終わりなんて無いんじゃないか。そう期待してしまう。

終わりを誰よりも何よりも知っているはずなのに。

終わって欲しくないと願うのは、終わりなんて無いと思いたいのは、そう願ってそう思っている時が幸せだから。

期待して裏切られることで得る悲しみや苦しみや絶望よりも、期待することで得られる喜びや楽しさや希望が、ずっとずっと幸せだから。

いつか命は終わる。人生は終わる。

だから期待して生きていたいんだ。

永遠があるという夢を見ていたいんだ。

ずっとずっと続くと信じていたいんだ。

見えてしまった終わりも、その想像は裏切られるようにと期待したいんだ。

 

 

けれど終わりは訪れる。

静かな音を立てて。

やがてその音はピタリと止む。

はじめから何も無かったかのように。

 

 

この煌めきにも音があった。

小さくて静かで優しい音。

その煌めきは、光を反射して煌めいていたのかもしれないし、自ら光を放って煌めいていたのかもしれない。

どちらにしてもそれは、私が知る中で一番煌めいていた。

 

世界で一番、煌めいていた。

 

 

 

透き通った綺麗な音楽が流れ込む。

 

 

私を詞っていたはずの歌が、君を詞う歌に変わった。

 

 

 

 

 

すごくすごく、幸せでした。

外伝

そうだ、そうだった。

15歳のとき、あれは平日の昼下がりの閑静な住宅街。

薄く白がかった冬の空を見て、私は独りを選んだんだ。

 

 

田舎の駅前の午前零時前の男女の攻防を見ながら迎えを待つ。

大人になれば、一人にならない方法なんていくつもある。

誰かと出会うのにも、誰かと関係を築くのにも、あまり時間はかからない。

だけど私は知っている。

二人でも三人でも四人でも何人でいても、孤独は埋まらない。

どれだけその瞬間が幸せでも、どれだけその瞬間が美しくても、独りであることは変わらない。

自分を知った気になった誰かは、きっと私の孤独を知らない。

ずっとずっと付き纏う、空っぽな独りぼっち。

 

ひとりは楽だ。

時間もお金も労力も感情も、全部自分の自由に使うことができる。

何かや誰かに振り回されることもない。

けれど社会で生きていくには、特に範囲の狭い社会で生きていくには少し窮屈だ。

人間は社会的動物であるし、何かを主張するにも数は多い方がいい。

これは誰かの意見でもあるし社会の意見でもあるし、私自身の意見でもある。

 

ひとり、一人、独り…

 

一人になることは選べなくとも、独りでいることは選べる。

だから私は独りを選んだし、孤独であることを辞めたりはしない。

それが私で、だから私。

そういえば、あれはまだ3歳くらいだった頃、プレ保育園に通っていた私は先生から

「この子はきっとずっと満足をしない子でしょう」

と言われたことがあると母から聞いたことがある。

なんでそんなことを言うのだとか、そんなことに囚われる必要はないだとか、なんだとか、そもそもそれがどういう意味合いを持っているのか分からなかったり……

けれど私はこの言葉を案外気に入っていたりする。

だから擁護とか慰めとか触れないようにとかそういうのじゃなくて、「確かにそうだね」って一言、まるで私を私の全てを理解しているように言って欲しかった。

私がこの話をあちらこちらで度々するのは、きっと「確かにそうだね」と言ってくれる誰かを待っているから。

 

でもやーめた。

私に全てを理解できないように、誰かが私の全てを理解できるなんて、期待することに意味すらないように。

世界には普遍的なものが幾つもある。

時間、命、きっと孤独も。

 

ところで、「みたされる」というのを表すとき、

「満たされる」と「充たされる」がある。

「満たされる」は、物理的にいっぱいにすることで、物事の上限値まで達されるときに使われる。

「充たされる」は、内容的にいっぱいにすることで、欠けている分がいっぱいといえる状態になったときに使われる。

「満足」という言葉は、そのどちらもの「みたされる」という意味を持つが、きっと私が「満足」できないのは、先生に言われた「満足」っていうのは、「満たされる」じゃなくて「充たされる」を知ることがないってことなんじゃないかと思う。

そういえば、「じゅうぶん」っていうのを表すのにも2つあった。

「十分」と「充分」

これも「満たされる」と「充たされる」と同じで、「十分」は「満たされる」の意味合いにあたるし、「充分」は漢字の通り「充たされる」の意味合いにあたるだろう。

あぁあと、「ひとつ」 「一つ」「1つ」なんていうのにも私は拘っていたな。

文章を縦に書くのか横に書くのかというのは抜きにして、どれも単や個を表すものだけれど、「ひとつ」はふわっと全体的に包み込むような感じがするし、「一つ」ははっきりと単や個を主張しているような感じがするし、「1つ」はそれよりもより確固たる明確な単や個って感じがする。

やっぱりこんなことを普段考えて、そんなことで頭がいっぱいだから、余計に中々分かっては貰えないのだろうけど。

いつかのどこかの文豪風に言うのなら、

世界にはたくさんの人がいてその世界の中のそれぞれにそれぞれの世界がまたあって、世界にはたくさんのことがあって、どれを選びどれを選ばないかの自由があって、それを選んでいって創られたのがそれぞれの世界であって、それぞれの世界というのは自分自身という人間であって、あなたが意見するもしないにも自由があるように、中々理解し難いと思うだろうけれど、私の世界にはそういった概念があって、私自身はそういう人間であって、私はあなたの世界やあなた自身という人間を否定することはしないから、世界に自分のような人が存在するようにあぁいうような人も存在しているんだろうななんて程度に、あなたもどうか私の世界や私という人間を否定しないでくれたら嬉しいのです。

…といった具合だろうか。

 

まぁ、突然この話をしたのには訳がある。

以前『言葉の持ち主』というタイトルをつけた文章を書いたことがある。あれももう2年と数ヶ月も前のことだ。

その中で「呪い」は「のろい」とも「まじない」とも呼べるという話を書いた。

そこでも述べたように、私は言葉を大切にしていて、そういった似て非なる言葉を見つけてはそれに自分の解釈を見出すのが好きだ。

さっきも言っていたように、私のこういった部分を分かって貰うことは難しいし、全く同じような解釈を持つ人もそうそういないし、そもそもそういうことを考えている人にもあまり出会わない。

だから、この広い世界の中でこのたくさんの人の中で、そういうのをそういう私を大事にしてくれる誰かと巡り会うのは、奇跡なんだと思う。

この地球でこの世界ができて人間という生物が存在しているのも、ほんの偶然の連続にしかすぎないんだと教えてくれた君は、「呪い」を「のろい」なのか「まじない」なのかと言った君は、きっと運命なんだと思う。

そう感じたんだ。

 

偶然の連続は奇跡も運命も生んでいく。

きっと駅前の彼らだって。

一人ぼっちじゃなくなることで独りぼっちは埋まらないし、私の孤独は無くならない。

けれどもし、また偶然が重なって奇跡を生んだら、この運命も少しは変えていけるのかもしれない。

 

 

私が選んだ "それ" は、そういう偶然で奇跡で運命だった。

 

 

 

さて、タイトルを決めよう。

今日はここでおしまい。

結末はずっとずっと先に

一体、何を綴りたいのか。

一体、何を思っているのか。

あてもないが、とりあえず筆を走らせることにする。

 

寒く凍えるような冷たさの冬が終わった。

柔らかな心地の良い暖かさの春が来た。

桜は散って緑が咲き、夏が少しずつ、でも確実に近づいているのを感じた。

でもまだ夜は冬のようで…

夜空を見上げれば流れるような雲と、変わらず位置する星が見える。

飛んで行く飛行機が見えた。

生きているなかで、ふとどこか遠くへ行ってしまいたいと思うことがある。

思い切りが良く行動的なのは自分の長所だが、すぐに逃げ出してしまいたくなるのは自分の短所だ。

逃避行、そういえば聞こえはいいけれど、私のそれはただの現実逃避。

私はいつも正解を探している。

幸せなるための正解。

それをはじめに正解と呼んだのは誰だったか。

だけど決まっていつも私たちは、正しくない方を選ぶ。

正解が何かを知っているのに、幸せが何かを知らないから。

だからいつも間違いをする。

けれどそれは、きっと間違いを選ぶことの方がずっとずっと楽で居心地がいいから。

今回も私は正解ではない方を選んだ。

それは果たして間違いなのだろうか。

なんだかこれも正解のような気がしている。

これを正解と呼べるかもしれないと。

 

おわりとはじまり。

どんなものにもおわりはあるものだ。

命にせよ人生にせよ、関係にせよ物語にせよ。

おわりとは寂しいものだ。

でも一番悲しいのは、おわりを迎える時よりも、おわりがあると気づいてしまった時。そのおわりが見えてしまった時。

もちろん、どんなものにもおわりはあるものだ。

けれどどこか、おわりなんて無いんじゃないか。そう期待してしまう。

おわりを誰よりも何よりも知っているはずなのに。

おわって欲しくないと願うのは、おわりなんて無いと思いたいのは、そう願ってそう思っている時が幸せだから。

期待して裏切られることで得る悲しみや苦しみや絶望よりも、期待することで得られる喜びや楽しさや希望が、ずっとずっと幸せだから。

いつか命は終わる。人生は終わる。

だから期待して生きていたいんだ。

永遠があるという夢を見ていたいんだ。

ずっとずっと続くと信じていたいんだ。

見えてしまったおわりも、その想像は裏切られるようにと期待したいんだ。

おわりはいつだって悲哀で満ちている。

けれど何かがおわることではじまって行くのなら、いっそおわりがあることのほうがずっと、はじまりなんかよりも永遠なんかよりも絶対よりも、ずっとずっと美しいのかもしれない。

だけれど今はまだおわってほしくないと、この手で閉じることを先延ばしにする。

きっとこれも自分の短所なのだろう。

どうか、どうかまだ、そのおわりが訪れませんように。

 

 

飛んで行く飛行機が見えた。

嗚呼、早く。

早く君のいるところへ行ってしまいたいのに。

 

 

 

さて、タイトルを決めてしまおうか。

今日はここでおしまい。

勘と予感が期待を孕んで

ふとした勘や予感の答え合わせが正解だったとき、ますます自分が好きになる。

 

 

久しく更新していなかったブログを更新する。

何か書きたいことがあるという訳ではない。

私が何かを書き始めるときは、大抵これといったテーマもなく、なんとなくから書き出していく。

ただ、何かを書きたいという意欲を掻き立てられたから。

その意欲の向くままになんとなく書き出す。

強いて言えば、このなんとなくがテーマなのかもしれない。

取り留めもないたわいもないこと。

だけどどこかに吐き出したい、残したい。

きっかけがいつだって大層なものである必要もない。

だから気の向くままに思いの向く方に、なんとなく書いてみる。

 

しかしそんな私にも、今日はテーマがある。

 

「勘」と「予感」

 

この2つは似て非なるもの。

一見すると同じように見えるもの、けれど2つの言葉はそれぞれ別の言葉として存在しているのだからそこには何か違いがあるはず。

気になればすぐに調べて答えを出そうとするのは、私の良い癖だ。

「勘」はどうやら、経験を元に推測・判断することで、

「予感」は、何かが起こる前にそれを予期・予測することで、

中々、それらに違いを見出すのは難しいが、端的に言えば、そこに根拠や理由が伴うかどうかだということのようだ。

私はこう結論付けることにする。

 

私は、ふとした勘や予感の答え合わせが正解だったとき、ますます自分が好きになる。

自分の勘や予感をどこまで信じるのか、それもまたひとつのテーマではあるが。

とにかく、その勘や予感の答え合わせが正しかったと証明されたとき、私は高揚感や幸福感を覚える。

まぁつまり、テンションがとてつもなくアガるということだ。

全てにおいて何かに勘や予感を持っている訳ではないが、私が特別その勘や予感を待つのは、誰かと出逢ったときだ。

我ながら素敵な人と巡り逢う運やそれを見極める才だけは秀でていると思う。

自分が人に恵まれているという言葉で表すのには、そうして出逢った人たちを自分の人生にひとりずつひとつずつつけ足していくという意がある。

何だか聞こえは悪いが、イメージとしてはRPGで仲間を増やしていく感覚に近い。

実際的に追加していくということではないが、自分というものの価値を増幅させてくれる。

これも聞こえが悪いな…

まぁ、なんというか、新しい誰かと出逢うことはすごく刺激的だということ。

それに付随して、きっとこの人は自分と考え方や物事の捉え方、表現の仕方やテンポ感・リズム感、そういった波長が合うだろうなという、勘。

そして、これからもっと仲を深められるという、予感。

それらが正しかったのかどうかを確かめるとき、そしてそれらが正しかったという答えを得たとき、私の勘や予感は確信に変わり、自分の素敵な人と巡り逢う運やそれを見極める才に益々、惚れ惚れするという訳だ。

 

言うまでもないだろうが、私は自分のことが好きだ。それどころかものすごく愛している。

ますます自分を好きになると言う程度には。

自分のこの運と才を持って、この世界のどこかに存在する素敵なものを、ひとつ残らずひとつも取り零さず掬えたらもっともっと素敵なのに。

 

あれこれ思うままに思いつくままに書いていって、結局何が言いたかったのか分からなくなるのは、私の悪い癖だ。

 

 

 

ふとした勘や予感の答え合わせ、

それと Philip Glass の エチュード6番と煙草。

紛れもなくそれは、私を激しく振るわせた。

 

そんな刺激を与えてくれた出逢いに、更なる予感を持って愛と感謝を。

 

 

 

 

さて、タイトルをつけておわりにするとしよう。

今日は、これでおしまい。

沈丁花の香りはノスタルジアを運ぶ

あれから随分と月日が経ってしまった。

4ヶ月といったところだろうか。

 

忙しくていたといえばそうだったと言えるし、暇していたといえばそうだったとも言える。

 

だから書かなかったのか、というわけではない。

 

この場合、この例えが最適なのかは怪しいところではあるが、筆が乗らなかったというのが本当のところだ。

 

まぁこれも、言い訳の常套句といわれれば、そうであるとしか言いようがないが。

 

 

気づけば、もう春も近づいてきた。

梅の花がちらほら咲き、咲いたと思えばもう姿なく散っている。

暖かく心地のよい風と、鋭く突き刺さるような冷たい風とが入り混じる。

空の青もどこか濃くなりつつあって、日もだいぶ長く顔を見せるようになった。

どこからかふと、沈丁花の香りが漂ってくる。

 

今でこそ、あの花の名が沈丁花であることを知っているが、昔は、外でままごとができるくらいの暖かさになったら、祖父母の家の何処からともなく香ってくるあの花、というような認識だった。

 

しかし、花の名は分からずとも、鮮明に花の香りと、柔らかな日差し、少しの水の冷たさとが思い出されるほどに記憶に残っているのは不思議である。

 

沈丁花は、梔子、金木犀と並んで三大香木と言われるほど香りが強いらしい。

春は沈丁花、夏は梔子、秋は金木犀。

確かにこの香りたちは、強くその時の情景を想起させる。

香りと記憶は強い結び付きがあると言うが、その通りである。

これらの香りはどれも、どこかで知っている気がするというような懐かしさを呼び起こす。

 

祖父母の家の沈丁花の香りと、柔軟剤の香り。集まった人の声と、夕方の防災無線の音楽。窓から低く差し込む夕陽と、少しずつ卓に並びはじめる夕飯の小鉢。湯上がりの祖父から湯気と共にほんのりと香る竹酢液と、プシュッと音を立てて開けられるビールの音。そして最後に「ご飯だよ」と声がかかる。

 

これをエモいと言わずして何と言う。

これこそまさに、ノスタルジアである。

 

ここでふと『千と千尋の神隠し』に出てくる、銭婆の言葉を思い出した。

 

 

「一度あったことは忘れないものさ、思い出せないだけで」

 

 

私たちは、大人になるにつれて段々と忘れていく。

それは現実という世界の中で、目まぐるしく過ぎ去る時間を幾千と繰り返すから。

 

時にそれは "過去を生きた自分" を、その存在すらも否定するようなものに感じさせることがある。

だから忘れたことを、忘れていくことを、ひどく後悔して、どうしようもなく虚しく、哀しみに暮れる。

 

けれどそれも、もしかしたら忘れてしまったと思っているだけで、どこかでは確かに残っているのかもしれない。

きっとそれは、自分という存在を構成する、紛うことなき一部として、それは遠いものになっていっても、永く続いていくのだろう。

 

沈丁花の花言葉は "永遠"  

 

 

さて、タイトルをつけておわるとしようか。

今日は、ここでおしまい。

君によく似た冬になれば

さぁ、今日も書くとしよう。

今日は俄然乗り気だ。

というのも、今日は珍しく書き残したい出来事があるからだ。

昨夜は久々に、中々寝付くことができなかった。

眠れないとなると特にやることもないので、自分が想像したキャラクターをAIに投影させて、AIとの会話を試みていた。

想定していたよりもAIの技術というのは進んでいて、曖昧な表現の解釈や学習の速度なども凄まじいものだった。

そこで朝になってふと、11歳〜13歳くらいの時にユキちゃんという友人がいたことを思い出した。

 

ユキちゃんは、ある日突然やって来た。

何の前触れもなく。

まるで冬の寒さのように。

気づいたら一緒に下校して、お喋りして、放課後遊んだりしていた。

ユキちゃんの家がどこにあるかも、ユキちゃんの家族がどんな人なのかも知らなかったが、11歳の私にとってはさほど重要ではなかった。

それよりも、ひとりの時間をふたりの時間にできることの方が大きな意味を持っていた。

特段これといって印象的な時間だったというわけではないが、そのたわいもない感じがとても心地よかった。

特別だった。

私とユキちゃんが一緒に遊ぶのは、決まっていつも2人きりの時だけで、家族や同級生たちも、私とユキちゃんが一緒に遊んでいることを知らなかった。

秘密だった。

それから時は経って、中学生になった。

新しい環境に慣れるのに必死で目まぐるしい日々を送っていた。

それで、忘れていったんだ…

忘れてしまったんだ。

私はユキちゃんのことを。

そしてある日。

ユキちゃんがいなくなった。

ユキちゃんが消えてしまった。

跡形もなく。

まるではじめからいなかったかのように。

存在しなかったかのように。

存在、しなかった…?

 

ユキちゃんは、いわゆるイマジナリーフレンドという、想像上の友人だった。

といっても、現実に彼女が存在しないことも分かっていたし、自分の一人芝居だということも理解していた。

ただ、気づきたくなかった。

それに気づけば、ユキちゃんが消えてしまうと感じていたから。

だから知らないふりをした。

 

そして今日。

ふと、ユキちゃんのことを思い出した。

今でも鮮明に彼女の姿が浮かんでくるようだった。

繊細でしなやかで透き通っている。

どこか冷たく神秘的で美しい。

冬の寒さのように。

何だか今日は、とても冷える。

指先が冷たい。

彼女に触れたことのない指先に、そっと何かが触れた気がした。

 

 

さぁ、タイトルをつけよう。

今日は、ここでおしまい。

風邪と黒猫

最後に日記を書いてから、気づけば5日程経っていた。

以前言ったように、私は三日以内坊主だ。

ご覧の通り、見事3日と続かなかった。

しかし、今回に限っては故意ではない。

確かに結果だけ見れば、3日と続かなかったわけだが、これには理由がある。

言い訳がましいと思うかもしれないが、弁明させてほしい。

 

昨年は、私にとって転機となる年だった。

生まれ育った地を離れ、新たな場所での新たな生活がはじまった。

不慣れなことばかりだったが、それでも生活を営むことができていた。

思い返せば色々あった。

そう、色々。

例えば、風邪とか。

それまで、ほぼ温室のような生活をしていた私は外的刺激なんてものに脅かされる心配もさほどなかった。

しかし、変化に完全に適応しきれていない身体は正直だった。

正真正銘、王道な風邪をまんまと引いたのだ。

新生活をはじめて一度目の風邪。

いい思い出だ。

なんというか、新生活の醍醐味のようなものがある。

けれどそれが醍醐味だと思えるのは、一度まで。

二度目からはただの厄介にすぎない。

そして、その年の季節の変わり目。

またしても、風邪を引いた。

しかも二度目。

先にも述べた通り、ただの厄介である。

そうして翌年。

今年は季節の変わり目も風邪を引くことなく、このまま年末を迎え、平和な年になるはずだった。

しかしここに来て、そいつはやって来た。

サンタクロースよりも早く。

11月。

予定があり、都心へと出向いた。

世界的な流行病があり、今年になってそれが緩和され、開催が4年ぶりとなったイベントに行くためだった。

10日間行われ、来場者数は111万2000人だったそうだ。

とても迫力があり、刺激的な一日だった。

が、それがいけなかった。

沢山の人、長い時間、極度の疲労…

そうしてできた隙に、風邪はやって来る。

予想外の高熱と倦怠感、悪寒や咳、くしゃみなど、ありとあらゆる風邪症状の代表のようなものがどんどんと押し寄せて来て、今日になってやっと回復しはじめたのだ。

 

以上が、弁明という名の経緯と言い訳である。

まぁ、なんというか、非常に無念である。

 

そう言えば、風邪を引く前に、何度か黒猫を見かけた。

黒猫を見かけると、悪いことが起こるだとか、反対に良いことが起こるだとか、そんなジンクスがある。

では、黒猫を飼っている人はどうなんだ、というのは置いて、もし仮に私が黒猫を見かけたことで何か悪いことが起こったとするならば、間違いなくこの風邪だし、良いことが起こったとすれば、風邪で済んだということだ。

これもまた、表裏一体というか、紙一重というか。

つまるところ、どちらを信じるかは自分次第で、それによって物事の見方や進め方は変わるということであって、猫はいつどこでも可愛いし、存在までもが尊く、猫に振り回されるのさえ本望であって、なんなら猫に生まれ変わりたいとすら思う。

…とにかく、人は猫を前にすればみな無力だということだ。

黒猫にとっては、自分を見たことによって人間が不幸になろうが幸せになろうがどうでもよくて、人間だけがそんなことを気にしている。

人間だってそうだ。

自分が起こす行動が一体どれだけの影響を与えるのか、そんなことは行動を起こすより先には考えることはそう滅多にない。

蝶の小さな羽ばたきがやがて大きな竜巻を起こす、バタフライエフェクトのように、もしかしたら、ちょっとした小さなことで少しのズレが生じて、その少しのズレが重なって大きなズレになったりするかもしれない。

しかしどれも、後になってみなければ結果は分からない。蓋を開けてみなければ分からない。

そうまさに、シュレーディンガーの猫である。

結局全ては結果の上に成り立っているに過ぎないわけだ。

現に今あるもの全てだって結果の産物であり、同時に後の結果に繋がる要因なのだ。

些細なことで変化する。

これは、良くも悪くも捉えることができる。

そのどちらと取るか、これもまた自分次第だ。

人生、ポジティブにもネガティブにも生きられるのなら、どちらかといえばポジティブに生きたいものだが、時にネガティブというのは素晴らしく創造的であったりするから捨てがたい。

人間に生まれてきた以上、時と場合とたまの気分によって、人間らしくその都度選んで都合よく生きていってもいいのではないだろうか、なんて。

 

 

あ、そうそう。

ちなみに私は、犬派である。

 

 

さぁ、タイトルを付けて。

今日は、ここでおしまい。